今回は、昨年に合気道のある雑誌に取り上げて頂いた拙文を掲載させて頂きました。自然館の1階は合気道の道場になっていますが、先代の塾長である父の自然館に対する理想やひととなりにも触れていますので、若干長くなりますが最後まで読んでいただけたら有難いです。
連載企画
次世代の指導者に訊く
「自然で素直な飾り気のない心の交流の場としたい」。父・吾妻久朝館長の想いを受け継ぎ、
守り続けていく合気道修練道場自然館を運営する吾妻正義師範にお話しをうかがった。
こんなに痛い武道なのか
― 合気道との出会いをお聞かせください。
吾妻 私が小学校に入学する頃だったでしょうか。父(吾妻久朝館長)が何か武道をやっているんだなと感じたことは記
憶しています。ただその時は、それが合気道だということはわかりませんでした。父は自衛官でしたから、私が幼い頃は単身赴任が続きほとんど家にいませんでした。ただ戻って来た時はよく庭に出て、剣の素振りなどをやっていました。
私が小学3年生の時だったと思いますが、父はしばらく近くの入間基地勤務となり、その頃一度だけ畳の部屋で、私の双子の弟と二人を並ばせて、今思えば正面打ち一教を教えてもらったことがあります。この時初めて父が合気道の指導者であり、合気道という武道を知ったのだと思います。
― 稽古を始められたのはいつ頃ですか。
吾妻 父はどちらかというと6歳年上の兄がやっていた剣道をやらせたかったようです。父自身も剣道歴は長く、それなりの自信があったようです「。俺が教えたら日本一にしてやる」と、もちろん冗談ですがそう言われたことがありました。その時は嫌だ嫌だと逃げ回っていましたが。
合気道を始めたのは、父が自衛隊を定年で退官し、この道場を建ててからです。私が高校3年生の時でした。父から合気道をやれと言われたことはありませんでしたが、武道には少し興味をもっていたので、これを機にやってみようと思いました。
合気道修練道場自然館は平成元(1989)年4月に開館しましたが、軌道に乗るまでは、父が指導していた入間基地合気道部の猛者たちが毎回稽古に来られていました。父の息子とあってか、皆さんには容赦なく稽古していただいたことを覚えています。その時の感想は、「こんなに痛い武道なのか」ということです。
教えるということは 自分も学ぶということ
― 指導者を志されたいきさつを。聞かせてください。
吾妻 だんだんと稽古を積み重ねていくうちに、合気道の奥深さや魅力にどんどん引き込まれていくようになりました。160センチと小柄な体型の父が、自分よりも大きな相手を簡単に押さえ投げ飛ばしているのを見て、自分もいつかこうなりたいと思うようになりました。指導者を意識したのは、大学を卒業して会社に入って2年目の頃です。
自然館は、1階は道場、2階は学習塾になっています「。下で体を鍛え、上で頭を鍛え、子供たちに文武両道の精神を育てたい」との父の理想を具現化したものです。この頃は、会員数も学習塾の生徒も増えてきていたので、思い切って会社を辞めて父を手伝うことを決めました。その時点で、いずれは跡を継ぐのだろうとは考えていました。
平成11(1999)年6月、父は64歳で急逝しました。あまりにも突然で、気持ちの整理がつかないままでしたが、私が跡を継ぐことになりました。稽古されていた方々は私よりも目上の方も多く、道場経営の面もわからないことばかり。私の師である磯山博先生はじめ、自衛隊の先輩方から励ましていただいて、なんとか形になっていきました。磯山先生の「お父さんと同じようにできなくてもいい。あなたなりのやり方を続けていれば、必ずみんな追いてくるようになるから」というお言葉が励みになりました。
― 指導する側になって感じたことは、どのようなことで しょう。
吾妻 発する言葉の重みです。道場で何 気なく伝えた言葉が、「あの時、先生の言葉があったから。」と、あとから知らされることがよくあります。
私は開祖の道歌が好きで、「すきもなくたたきつめたる敵の太刀 皆打ち捨てて踏み込て切れ」という歌を会員に紹介したことがあります。すると悩みを抱えていた会員から、苦しい時にこの歌を思い浮かべることで乗り切れたと涙ながらに語られたことがありました。
また、子供の頃から学校の先生になりたいと言っていた会員がいて、その人は2年ほどタクシーの運転手を経験してから教師になりました「。小学生の頃、吾妻先生が 2年くらい社会経験してからの方がいいと言っていたから」と言われました。大人になっても続けている会員が10名ほどいますが、彼らも少年部の頃に私が言ったことを覚えていました。とても嬉しい反面、指導者として発する言葉には常に責任が伴うということを痛感しました。
磯山先生も「、教えるということは自分も学ぶということである」と常々おっしゃっていますが、この姿勢は私の座右の銘としてこれからも大切にしていきたいと思っています。
すべて時のベールが解決してくれる
― お父様から教わったことを聞かせてください。
吾妻 背中からたくさんのことを学びましたし、言葉もたくさん教えてもらいました。
父は自分のつらい経験や身体の不調などを顔には出しませんでした。周囲を心配させたくなかったのでしょう。周りの人への思いやりや労りの気持ちを何よりも大切にしていた父の考えがよく表われていると思います。
また、父は自分のことを私たちにはあまり話しませんでしたから、亡くなって自衛隊の上司や同期の方からいろいろとお話を伺い、初めて知った父の素顔もたくさんありました。時に理不尽なことで悩む部下を守るために、上官に食って掛かったこともあったようです。
「俺は自衛隊が階級社会であることを忘れていた」と語り、常に辞表をしたためていたようです。
私が悩んだり迷った時は、いつもその状況に合った言葉を与えてくれました。なかでも「今は頑張れ! すべて時のベールが解決してくれる」という言葉は、我慢・忍耐の尊さを教えてくれました。
また、大学時代に体育の選択教科に合気道がありました。ある時、父のやり方と違うことを伝えると、「どこの道場に行っても、その指導者の示すとおりにやらなければならない。常に素直で謙虚な気持ちでいれば、必ず得るものがある」と言われました。
そして、道場の子供たちに一番話していたことは、「人間は感謝の気持ちを忘れたらおしまいなんだよ」ということです。父はあまり喋る方ではありませんでしたが、今思えば必要な時に必要なことをちょうど良いタイミングで教えてくれていたように思います。
― 指導において、大切にされていることはどのようなことでしょう。
吾妻 何よりもまず、怪我をしないこと、させないことを常に念頭において指導しています。道場での怪我が、日常生活に支障をきたしてはいけません。
そしてもう一つは、父が唱えた自然館の3つのモットーを意識して指導しています。
(1)伸び伸びと気を出しましょう。
(2)相手の身になって考えましょう。
(3)感謝の気持ちを大切にしましょう。
常に稽古では、元気や陽気といったプラスの気を出して、年齢や性別、体格や性格も違う相手を尊重しながら、一緒に稽古ができることに感謝しながら指導することを心掛けています。
合気道を好きになってもらえるように
― 自然館の後継者として守り続けていくこと、新たに取り組んでいきたいことはありますか。
吾妻 父は自然館という名の由来について、すんなり自然につけたと言っていました。そしてこの自然館を、「自然で素直な飾り気のない心の交流の場としたい」とも語っておりました。私は父のこの思いをしっかりと継承し、自然館が動機や目的も異なる人たちが自然に集う道場となるよう、そして自然館での稽古が皆様の様々な思いや期待に応えられるよう努めて参りたいと思っています。
また、父は「俺は死んでからも 合気道をやるんだ」とよく語って いました。開館式では、「合気道を やっていて本当に良かったと思う日が必ず来ることを確約致します」と言って挨拶を締めくくりま した。父が合気道を愛したように、私も会員の皆様には、合気道を本 当に好きになってもらえるよう指 導をして参りたいと思います。
新しい取り組みですが、昨年から少年部では毎回開祖の道歌を紹介しています。数首唱えるようにしていますが、子供たちを見ていて感心することは、5歳の小さな子でもすぐに暗誦してしまうことです。意味はほとんど伝えませんが、子供たちはその言葉の響きやリズムに親しみや楽しさを感じて覚えてしまうようです。
やはり合気道の上達には、技の鍛錬だけでなく、知識も必要かと思います。私自身、今後も頭を捻りながら勉強を続けて参りたいと思っています。